作品紹介
灯子、梨沙、真昼、かな。四つの夜に訪れた四人の女性と、その夜に交わされた短い言葉だけで構成された作品です。
「自分へのご褒美、みたいに思えたらいいなって」「また抱かれたい、じゃなくて……また会いたい、なんですよね」。劇的な出来事は何も起きません。夜が終わり、エレベーターの鏡に疲れた男が映る。それでも昔とは違うものが、そこには残っています。
全5章・約4,300字/公式サイト版
※本作は創作小説です。筆者個人の体験をそのまま記したものではなく、実在の人物・団体・出来事とは関係ありません。
奇跡とは呼ばない。ただ、夜ごと手渡される、やわらかな証言と呼んでいる。四人の女性との四つの夜の物語です。
四十九歳の秋、私はようやく知った。
女は、触れられたからひらくのではない。
ひらいてもいいと思えた時に、はじめて触れられるのだ。
若いころの私は、その順番を何度も間違えた。
呼吸の合わせ方、沈黙の置き方、指先の速度、そういうものばかり磨いていた。
技術があれば、女はほどけるのだと思っていた。
半分は本当だった。
半分は嘘だった。
女たちは、手つきだけではほどけない。
その前に、言葉にならないところで安全を確かめる。
この人は急がないか。
この人は、私の羞恥を面白がらないか。
この人は、欲しがる私を軽蔑しないか。
その確かめが終わって、ようやく、身体がこちらを向く。
私はそのことを、四人の女から教わった。
一人目の女―灯子
灯子は三十八歳で、二人の子どもの母親だった。
地方から新幹線で来る女で、いつも少しだけ早く着き、席に座る前に一度まわりを見た。
最初に会ったとき、彼女は言った。
「家庭は壊したくないんです」
その言葉には、ありがちな嘘の匂いがなかった。
彼女はほんとうに家庭を守るつもりで、そのうえで、それでも誰にも見せていない渇きを抱えていた。
二度目に会ったとき、彼女は笑いながら言った。
「自分へのご褒美、みたいに思えたらいいなって」
私はその“ご褒美”という言い方を、妙に美しいと思った。
灯子は欲しがることに慣れていない女だった。
何かを求めるときでさえ、相手への遠慮が先に立つ。
抱きしめられたいくせに、抱きしめてほしいとは言わない。
会いたいくせに、こちらの都合を先に心配する。
だから私は、彼女に対してだけは、少しだけ丁寧すぎるくらいでちょうどよかった。
その夜、部屋の灯りを落としてからも、彼女の肩には硬さが残っていた。
私は急がず、髪に触れ、耳のうしろに指を滑らせ、呼吸がゆるむまで背中を撫でた。
彼女は最初、声を出さないようにしていた。
唇を噛み、息だけで耐えようとしていた。
「我慢しなくていいですよ」
そう言うと、彼女は目を閉じたまま、小さく首を振った。
「我慢してるんじゃなくて……慣れてないだけ」
その答えが、妙に切なかった。
やがて彼女は、胸元に額を寄せてきた。
その重さは、情熱というより、ようやく寄りかかれた人間の安堵に近かった。
私が髪を撫でると、彼女はほとんど聞こえない声で言った。
「こういうの、ずるいですね」
「何がですか」
「こんなふうにされたら、また来たくなるから」
私は笑わなかった。
そういう時、女は冗談に紛れて本音を言う。
帰り際、灯子は鏡の前で口紅を引き直しながら言った。
「大丈夫。家庭はちゃんと大事にします。……でも、ちょっと疲れたら、また甘えます」
その“ちょっと”が、女のずるさであり、愛しさだった。
二人目の女―梨沙
梨沙は三十歳で、教員をしながら大学院で学び直しをしていた。
昼は教壇に立ち、夜はワインを飲みながら恋人ごっこの続きを欲しがる女だった。
「私はあなたを愛してるわけじゃないの」
三度目のあと、彼女はそういうメッセージを送ってきた。
「でも、愛する可能性はあると思ってる」
その言い方に、私は笑った。
梨沙はいつもそうだった。
本気を、可能性という言葉で薄める。
欲望を、理屈の中にしまおうとする。
彼女は“疑似彼”という言葉を好んだ。
本物の恋人は面倒で、責任が増えて、失望も増える。
でも、恋人のふりをする時間は欲しい。
手をつなぎ、目を見て、名前を低い声で呼ばれ、帰る前に少しだけ引き止めてほしい。
「恋人みたいにして」
そう言われた夜がある。
あれは裸になったあとではなく、服を着たままソファに並んでいた時だった。
そういう順番が、梨沙らしかった。
私は彼女の頬に触れた。
肌はすでに熱を持っていたのに、目だけが妙に醒めていた。
女は、いちばん欲しい時ほど、平気なふりをすることがある。
「どんなふうに」
そう聞くと、梨沙は視線を逸らしながら言った。
「ちゃんと、好きみたいに」
その言葉の幼さに、私は少し胸が痛んだ。
梨沙といる時は、いつも境界が難しかった。
甘くしすぎれば、彼女はそこに永遠を見てしまう。
突き放しすぎれば、二度とほどけない。
だから私は、首筋にキスを落とすときも、肩を抱くときも、少しだけ引き算をした。
恋人のように触れながら、恋人ではないという線を、消えない程度に残した。
それでも彼女は、抱かれたあとで私の胸に指を這わせながら、少女みたいな声で言った。
「しわくちゃになっても、かわいいって言って」
「言いますよ」
「今、適当に言ったでしょ」
「言ってません」
「じゃあ、もう一回」
そんなやり取りを、私はたぶん何度も繰り返した。
彼女が欲しかったのは、官能そのものよりも、その前後にある“好きに見える会話”のほうだったのかもしれない。
女は時々、身体より先に言葉で抱かれたがる。
梨沙はそのことを、自分でよく知っている女だった。
三人目の女―真昼
真昼は三十一歳で、危うい女だった。
衝動で連絡し、朝になると後悔する。
会いたいと言った五分後には、やっぱり無理と書いてくる。
彼女は性的な好奇心が強いように見えて、その実、いちばん怖がっていた。
快楽そのものではない。
自分が堕ちていく感じを。
「何も考えられなくなるのが怖いんです」
最初の夜、彼女はそう言った。
「でも、そこまで行ってみたい」
そう言う女は多い。
だが真昼のそれは、単なる好奇心ではなかった。
ずっと自分を抑えてきた女が、解放の手前で見せる震えだった。
彼女には、少しだけ儀式めいたものが必要だった。
いきなり触れると、身体より先に心が逃げる。
だから私は、最初に目を閉じさせた。
視線を断つだけで、女は少しだけ自分の輪郭を手放せる。
「何されるかわからないの、嫌じゃないですか」
そう聞くと、真昼はベッドの上で首を振った。
「……たぶん、そのほうがいい」
その声はもう、昼間の彼女のものではなかった。
私は手首に触れ、喉元に触れ、鎖骨のくぼみに指先を置いた。
そこから先へ進むより先に、彼女が自分の呼吸を忘れる瞬間を待った。
女は、安心しているときより、安心したあとに乱れる。
やがて彼女は、目隠しの下で唇を開いた。
最初は堪えるように、次には誘うように。
声を出すことを恥ずかしがる女だったのに、見えないままのほうが素直になる。
羞恥は、見られている意識と結びついているからだ。
「こんなの、初めてです」
途中で彼女がそう言った。
涙声にも、笑いにも聞こえた。
「何が」
「……自分じゃなくなる感じ」
その言葉のあと、彼女の身体は急にやわらかくなった。
抵抗していたものが、ようやく居場所を見つけたみたいに。
終わったあと、彼女はしばらく動けなかった。
シーツの上で、息だけを細く吐いていた。
私は水を渡したが、彼女は受け取る前に私の袖を少し掴んだ。
「まだ行かないで」
その一言が、あの夜いちばん官能的だったと私は思う。
欲望は、しばしば触れ方の中にあるのではない。
終わったあと、ひとりに戻りたくない声の中にある。
四人目の女―かな
かなは三十四歳で、静かな女だった。
最初は客として来ていたのに、会うたびに少しずつ変わっていった。
「前の私なら、こんなこと考えもしなかったです」
そう言って笑う彼女の目には、遅れて灯った火のようなものがあった。
かなは恋人っぽい甘えが苦手だった。
人に寄りかかることにも慣れていない。
だがそのぶん、一度ほどけると、とても深くこちらに身を預けた。
「距離の詰め方が心地いい」
初めてそう言われた夜、私は少し驚いた。
彼女のような女は、たいてい「優しい」とか「安心する」と言う。
距離の詰め方、と表現する女は珍しい。
つまり彼女は、何をされたかだけでなく、どう近づかれたかを見ていたのだ。
その夜、彼女は最初から少し熱を帯びていた。
神経質そうに見える指先が、私の腕に触れるたび、ためらいと期待が同じ温度で伝わってきた。
私はその手を取り、手のひらをひらかせた。
女は、自分から触れたあとのほうが、こちらに触れられやすくなることがある。
かなは声を飲み込む癖があった。
感じても、息でごまかす。
だから私は時々、耳元に口を寄せて、言葉ではなく呼吸だけを落とした。
そうすると彼女は、肩を小さく震わせたあと、ようやく本当の声を漏らす。
その控えめな声が、私は好きだった。
派手に乱れる女は記憶に残りやすい。
だが、静かな女がある瞬間だけ深く崩れるのを見た時のほうが、男の心には長く残る。
かなはその後、自分で小さな店を始めた。
会った数か月後、メッセージが来た。
「前の私では考えられないくらい、行動力が出てきました」
私はその文を読んで、少しだけ胸が熱くなった。
女が自分の人生を動かし始める時、そこには官能とは別の艶がある。
最後に会った日、かなは帰り際に振り向いて言った。
「また抱かれたい、じゃなくて……また会いたい、なんですよね」
私は答えなかった。
その違いを、彼女はもうわかっている顔をしていたからだ。
夜のあとに残るもの
灯子は、家庭を守りながら甘えた。
梨沙は、恋人の代用品を欲しがりながら、ほんものの愛に触れたがった。
真昼は、解放を求めながら、自分がなくなることに怯えた。
かなは、静かなまま人生を動かしていった。
四人とも違う女だった。
だが共通していたのは、感じることより先に、許されることを欲していたことだ。
ここでは愚かでもいい。
ここでは欲しがってもいい。
ここでは、少し淫らになっても軽蔑されない。
その確信があって、女の身体はようやく、自分の奥へ落ちていく。
若いころの私は、その順番を知らなかった。
今は知っている。
女は、快楽そのものに抱かれるのではない。
快楽を受け取ってもよいと、心が認めた瞬間に抱かれるのだ。
そして、会った時間より、会えない時間のほうが、関係を濃くしてしまうことがある。
誕生日の短いメッセージ。
夜更けの「会いたい」。
何気ない冗談。
次は恋人みたいにして、という甘え。
ハグしてほしい、というたった一行。
そういうものが、肌に残る匂いより長く続く。
私は長いあいだ、女を癒しているつもりでいた。
だが今はわかる。
私が立ち会っていたのは、女が“自分の欲しさ”を恥じなくなる過程だったのだ。
しかも、その過程を見つめながら、
恥じていたのは私も同じだった。
夜が終わる。
服を整え、部屋を出て、エレベーターの鏡に疲れた男が映る。
昔なら、その顔には空洞しか見えなかった。
けれど今は違う。
女たちの熱。
ためらい。
甘え。
冗談。
崩れる寸前の目。
終わったあとの深い吐息。
そういうものが、少しずつこちらにも残っている。
たぶん、人は誰かを完全には救えない。
けれど、次にひらくための記憶にはなれる。
私はそれを、奇跡とは呼ばない。
ただ、夜ごと手渡される、やわらかな証言と呼んでいる。
Ladies Room について
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