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作品紹介

澄子は言葉の整った女でした。こちらの話をよく聞き、その場で意味を組み替えて、静かに返してくる。彼女はきちんとした関係を望み、私はそれに気づきながら、曖昧な場所に留まりつづけました。

あれは優しさではなく、嫌われることを恐れただけの臆病さでした。長い時間が過ぎたいま、あの出来事は人生の流れに最初から組み込まれていた一場面だったのではないかと思います。光で教える人がいて、影で教える人がいる。彼女は後者でした。

約3,700字/公式サイト版

※本作は創作小説です。筆者個人の体験をそのまま記したものではなく、実在の人物・団体・出来事とは関係ありません。

光で教える人がいる。影で教える人もいる。長く尾を引いたひとつの関係についての物語です。

澄子と出会ったのは、ひとつ前の恋が終わりきらないうちだった。

年上の女と数年を過ごし、その明るさに照らされながら、私はようやく、自分がこの世界に戻ってきたのだと信じかけていた。閉ざされた精神の共同体を離れてから、ずいぶん時間は経っていたが、ほんとうの意味では、まだ地上に足をつけていなかったのだと思う。

そんな時に、澄子は現れた。

最初に会ったのは古い都だった。
石畳と寺の影、乾いた夕方の空気。
彼女は私より十歳ほど年上で、地方の公立大学で教えていた。福祉や支援や、人が地域の中でどう生きていくか、そういうことを研究し、教える立場の人だった。

彼女は言葉の整った女だった。
こちらの話をよく聞き、その場で意味を組み替え、静かに返してくる。知的で、慎重で、よく考えているように見えた。だが、その表面の下には、いつも裸の感情があった。

彼女は聡明だったが、難しい人でもあった。
気分の起伏が激しい、という意味ではない。
もっと根の深い難しさだった。
人との関係に対してとても敏感で、その敏感さを自分でも持て余しているように見えるところがあった。

愛されたい。理解されたい。選ばれたい。
その願いが強いのに、同時に、人を心から信用することには怯えている。
そういう矛盾を、彼女は知性で支えて生きていた。

こちらが少しでも言葉を濁すと、彼女はその曖昧さにすぐ気づいた。
そして、気づいてしまったことを、そのまま見過ごせない人のようだった。
「それは、つまりどういうこと?」
と静かに聞き返してくる時の声に、私はときどき身構えた。
怒っているわけではない。
ただ、見逃さないのだ。
人の逃げ道や、優しさのふりをした保留や、傷つけまいとして結局は責任を避けているだけの言い回しを、彼女は見逃さなかった。

会話をしていると、その矛盾がふいに表へ出ることがあった。
さっきまで理路整然と社会や支援の話をしていた人が、次の瞬間には、置いていかれた少女のような目でこちらを見る。
甘えた直後に急に理屈っぽくなったり、やわらかな時間のあとで、こちらの誠意を試すようなことを言ったりした。
そういう揺れが、彼女を難しくし、同時に忘れがたい女にもしていた。

私は彼女とうまくやっていく自信がなかった。

ある夜、彼女は、私たちは以前にも関わりのあった人間なのだと言った。
前世、という言葉を、彼女はためらいなく使った。
しかも、それは場を和ませるための軽い比喩ではなく、彼女の中ではかなり確かな感覚として語られていた。
「私たち、きっと前世でも関係があったんだと思う」
そう言ってから、彼女は少し間を置いて、
「その時も、結ばれなかったのかもしれないけど」
と付け加えた。

私は半分は笑い、半分は黙って聞いていた。
そういう言葉を、ただの夢想として退けるには、彼女の目があまりに真剣だった。
その時の私は、それを少しロマンティックで、少し思い込みの強い言い方だと受け取っただけだった。
けれど今になって思えば、あの言葉にはすでに、私たちの関係を偶然ではなく必然として抱え込みたい彼女の気配が、静かに滲んでいたのかもしれない。

何度か会ううちに、私たちは街を歩いた。
古い芸能を観に行き、寺の石段を上り、旅館に泊まり、海の見える町へも足を伸ばした。ふつうの恋人たちがするようなことを、私たちもした。けれど、その時間のどこかにはいつも、薄い緊張が混じっていた。

彼女は私と、きちんとした関係を望んでいた。
それはかなり早い段階でわかった。
私はそれに気づきながら、曖昧な場所に立ち続けた。

今になって思えば、最初に彼女を傷つけたのはたぶん私のほうだった。

愛していないなら、そう言えばよかった。
引き受けられないなら、最初から距離を取ればよかった。

けれど私は、そうしなかった。
彼女の知性に惹かれ、年上の女の落ち着きに甘え、その強さの中にある脆さに心を動かされながら、責任だけは引き受けないという、いちばん中途半端な位置に立っていた。

彼女はある日、はっきりと気持ちを伝えた。
私はそれを受け止めきれなかった。
断るなら断ればよかったのに、未来を保留の形で差し出すようなことを口にした。
いつか、もっと条件が整ったら。
もっと安定したら。
そんなふうに、先のことを言い訳にして、その場の答えを先延ばしにした。

あれは優しさではなかった。
嫌われることを恐れた、ただの臆病さだった。

しばらくして、表面上の関係は終わった。
少なくとも私は、終わったと思っていた。

けれど、そのあとから、私の生活の縁には長い影が差し始めた。

最初は説明のつかないメールだった。
次に、無言電話。
匿名の書き込み。
どこかで私のことを知っているような文体。
私しか知らないはずのことを、遠回しに触れてくる気配。

私はすぐには、それが彼女だと思わなかった。
思いたくなかったのだろう。
人は、自分に強い好意を向けていた相手が、やがて自分の放棄を望むようになるとは、簡単には信じられない。

けれど時間が経つにつれ、その影の輪郭は、私の知っている澄子のものと重なっていった。

彼女は、私が立ち直ることより、私が崩れていくことを望んでいたのだと思う。
私が疲れ、削られ、最後には自分の人生を自分から手放してしまうことを。

そこにあったのは、愛の裏返しなどではなかった。
未練でもない。
もっと冷たく、もっと静かな悪意だった。

ただ、今の私は、それを不幸とだけ呼ぶ気にはなれない。

あの頃はわからなかった。
なぜこんなことが起きるのか。
なぜ自分だけが、見えない手に生活の縁を擦られ続けるのか。

けれど長い時間が過ぎた今、あの出来事は、私の人生の流れの中に最初から組み込まれていた一場面だったのではないかとすら思うことがある。

もちろん、歓迎していたという意味ではない。
感謝しているという意味でもない。

ただ、人には、それを通らなければ次へ行けない出来事がある。
光として現れるものもあれば、影として現れるものもある。
澄子は、私にとって後者だったのだと思う。

彼女によって私は、自分の曖昧さを見せつけられた。
引き受ける気のない希望を与えることの残酷さを知った。
「優しさ」のつもりで逃げることが、どれほど相手を深く傷つけるかを知った。
そして、悪意というものは、もっともらしい説明の顔をして長く居座ることがあると知った。

私は削られはした。
立ち止まりもした。
けれど、人生そのものを放棄するところまでは行かなかった。

そこが、この話のいちばん大事なところだ。

彼女は、私に長い影を落とした。
だが、その影の中で、私は自分を完全には見失わなかった。
壊れなかった、と言っていいのかもしれない。
少なくとも、自分の人生を彼女の望む結末のほうへ差し出すことはしなかった。

彼女は公の場で、人の尊厳について語る人だった。
支援や権利や、弱い立場にある人が地域で生きることの意味を教える側にいた。
そのことと、私に向けられた感情の冷たさとの落差は、長いあいだ私を戸惑わせた。

けれど今は思う。
人は、公の顔と私的な顔を、同じ規則では生きられない。
人を助ける言葉を持つ人が、たった一人には残酷であることもある。
それは恐ろしいが、ありえないことではない。

だから私は、彼女を怪物としてだけは記憶しない。
怪物にしてしまえば話は終わる。
けれど人生は、終わった言葉だけでは前に進まない。

澄子は、私の人生に必要だった影だったのかもしれない。
そう言うと、運命論めいて聞こえるだろう。
それでも今の私は、あれを単なる事故や災難としてだけ片づける気にはなれない。

私は彼女を傷つけた。
彼女は悪意を選んだ。
私はそれに屈しなかった。

その三つが、いま机の上に置ける事実だ。

古い都の夕暮れを、ときどき思い出す。
寺の石段。
旅館の廊下。
海の見える窓。
知的な言葉づかいの奥に、隠しきれずにのぞいていた激しさ。

あの頃の私は、まだその女がどんな影を連れてくるか知らなかった。
けれど、知らなかったからこそ、そこを通るしかなかったのだとも思う。

人生には、光で教える人がいる。
影で教える人もいる。
澄子は、私にとって後者だった。

そして私は、その長い影のあとでようやく、誠実さとは何かを少しだけ知った。
相手を傷つけないように曖昧でいることではなく、引き受けられないものを最初から引き受けないこと。
希望を持たせる資格がないなら、希望の形をした言葉を口にしないこと。

その当たり前のことを、私はずいぶん遅く学んだ。

だから今の私は、彼女を恨みの中だけには置かない。
彼女は私に長い影を落とした人であり、
同時に、私の歩みの中に最初から織り込まれていた一つの出来事でもあった。

いまの私にできるのは、彼女を断罪することでも、理解し切ったふりをすることでもない。
ただ、あの時間に名前を与え、もう一度こちらへ戻ってこないよう、静かに扉を閉じることだけだ。

私は彼女に負けなかった。
そのことだけを確かなものとして、あとのすべては、もう過ぎた季節として眠らせたい。

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